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先の大戦を、当時の日本人は何のために戦ったのか? 59-1

 8月15日が近づいてきました。先の大戦について考えてみようと思います。

人類の歴史には、常に光と影の両面が存在します。しかし現代の日本では、「戦前の日本は侵略と軍国主義の道を歩んだ悪しき存在であった」という、一面的な負の側面ばかりを強調する自虐史観が、教育、専門家、政治家、マスメディア、そしてインターネットに至るまで大勢を占めているように見受けられます。

歴史の記録を紐解いていくと、「本当にそうだったのか?」という重大な疑問に数多く突き当たります。当時の日本人が置かれていた過酷な国際環境の中で、日本人は何を考え、何を守るために戦ったのか。その歴史の正の面や、戦後見ようとされてこなかったもう一つの視点を改めて深く掘り下げてみたいと思います。


1. 当時の日本人が大東亜戦争を戦った「2つの大きな理由」

戦後日本では、アメリカ側の視点に基づいた「太平洋戦争」という呼称が一般化していますが、当時は欧米による植民地支配からアジアを解放を目指した「大東亜戦争」が日本国政府の正式呼称でした。

当時の午前会議における決定事項(帝国国策遂行要領)などの資料を読むと、日本が退路を断たれ、戦争へと追い込まれていき、戦争に踏み切らざるを得なくなった根源には、2つの大きな願いがありました。


① 日本国存亡がかかった「自存自衛(自国防衛)」

当時の日本は、資源の大部分を海外からの輸入に依存していました。しかし、アメリカ、イギリス、オランダ、中国などによるいわゆる「ABCD包囲網」によって、生命線である石油などの重要物資の輸入が完全に断たれるという致命的な経済封鎖を受けました。当時の日本にとって、これは「このまま座して死を待つか、それとも国を守るために立ち上がるか」という国家存亡の危機であり、自衛のための止むを得ない選択でした。

さらに、北方にはソビエト連邦(ソ連)の巨大な脅威がありました。ロシア・ソ連の絶え間ない南下政策に対抗し、日本の安全保障に直結する朝鮮半島の独立維持、さらには満州の権益を守るため、日露戦争の延長線上として満州事変や中国との衝突へと繋がっていったという切実な自衛のための戦いがありました。政府は外交努力による平和的解決を最後まで模索したものの、国家の独立と存立を維持するために戦争も辞さないという重大な決断を下したのです。


② 欧米の過酷な植民地支配からの「アジアの解放と共存共栄」

1895年当時、タイや日本を除き、アジアのほぼ全域(ベトナム、ビルマ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、中国など)は、欧米列強の過酷で過激な植民地支配下に置かれていました。現地の人々は人種差別に苦しみ、国家の主権は剥奪されていました。

日本は、こうした欧米によるアジアの搾取構造を根底から打破し、アジアの諸国・地域が対等な立場で共に栄える「大東亜共栄圏」の建設の理想を掲げました。これは単なる抽象的なスローガンではなく、実際に、インドの独立支援、ビルマ・フィリピンの独立承認、インドネシアの独立に向けた支援と実戦など、日本人の血を流しながらアジア解放の働きとして各地で展開していきました。


                 やまとこたろう


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