日本は、なぜ対米戦争に引きずり込まれていったのか?
歴史事実にあたりながら、考察してみたいと思います。
日本は、かつて鎖国によって250余年の平和を享受していました。そこに、黒船が来航し大砲で開国しろと脅迫したことが原因だ、アメリカのオレンジ計画(日本侵攻計画)が原因だという意見もあります。なるほどそうだなという面もありますが、対米戦争前の状態に引きつけてみると、支那事変の戦線が拡大していったことが、分岐点と考えるのが妥当でしょう。
当時の支那大陸は一つの政府に統一されていなかった
ここで、当時の支那大陸の状況を押さえておく必要があります。
現在のように、支那大陸全体を一つの中央政府が統治していたわけではありません。
中華民国という政府は存在していましたが、その支配が支那大陸全体に及んでいたわけではなく、各地にはさまざまな軍閥が存在していました。
さらに、欧米列強などが権益を持つ地域もあり、支那大陸は政治的・軍事的に非常に複雑な状況にありました。
中華民国政府の中心は南京に置かれていたため、これを「南京政府」と呼ぶこともあります。
つまり、当時の支那大陸は、現在のような一枚岩の国家として理解すると、実態を見誤ってしまいます。
盧溝橋事件が起きる
そうした状況の中で起きたのが、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件です。
北京郊外の盧溝橋周辺には、日本軍が駐留していました。これは日本が勝手に軍隊を送り込んでいたということではありません。義和団事件後に結ばれた国際協約に基づき、日本及び複数の欧米諸国が北京周辺に軍隊を駐留させていたのです。
その日本軍の宿営地付近で銃声が起こり、日本軍と国民党軍との間で銃撃戦が始まりました。双方が「相手から先に撃ってきた」と主張しました。
この事件については、その後さまざまな研究が行われており、当時の支那国内では国民党と共産党が激しく対立しており、共産党軍が日本軍と国民党軍の双方に向けて発砲したという説が出てきています。
このような複雑な政治・軍事状況の中で、局地的な銃撃戦が発生し、それが次第に大きな戦闘へと発展していくことになりました。
なぜ「支那事変」と呼ぶのか?
現在の教科書では「日中戦争」と表現されることが多いですが、当時の正式な呼称を確認すると、「支那事変」という名称が用いられており、ここでは、歴史上の用語として「支那事変」という言葉を使うことにします。なぜ?を整理します。
なぜ「支那」?:現在の中国の約東半分の地域を、現地の人の発音を聞いて英米人は英語で”China”(チナ、チャイナ)と表記しました。当時”China”では”China”の発音を「支那」と表記していました。現在、南シナ海(South China See)、東シナ海(East China See)と表記されているのと同じです。
なぜ「事変」?:一般に「戦争」とは、国家と国家が戦うことを指します。当時の国際法では、正式に宣戦布告を行うことが重要な意味を持っていました。一方、宣戦布告を行わず、局地的な軍事衝突として扱われたものが「事変」です。 昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件も、当初は日本軍と国民党軍との局地的な衝突でした。そのため、日本政府はこれを「戦争」ではなく「事変」として扱いました。
やまとこたろう

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