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セオドア・ルーズベルト大統領とオレンジ計画の萌芽 62-2

 第2章:セオドア・ルーズベルトとオレンジ計画の萌芽

こうした太平洋進出と対日警戒の動きを主導した中心人物が、第26代大統領セオドア・ルーズベルトです。海軍次官などを歴任し、海軍力増強の重要性を強く認識していた彼は、戦略家アルフレッド・セーハンらの影響も受けながら、将来の太平洋における覇権争いを視野に入れていました。

1897年、セオドア・ルーズベルトは海軍大学の責任者に対し、日本がハワイ諸島を狙っているという想定の下、アメリカの牽制戦略や兵力展開に関する秘密研究を行うよう命じました。これが、のちに「オレンジ計画(War Plan Orange)」へと発展していく対日作戦計画の原点です。仮想敵国を色別でコードネーム化したアメリカ軍において、日本は「オレンジ(Orange)」と命名されました。

1901年に大統領に就任したセオドア・ルーズベルトは、「大きな棍棒を持って静かに話せ」という外交方針(いわゆる「棍棒外交」)のもと、海軍予算を大幅に増額し、新鋭戦艦を続々と建造してアメリカ海軍を世界屈指の戦力へと押し上げました。

一方で、彼は日露戦争(1904〜1905年)の講和会議であるポーツマス条約の仲介役を務め、その功績でノーベル平和賞を受賞するなど、表面上は日露間の調停者として振る舞いました。しかしその水面下では、日本の強国化を冷静に分析し、将来の対日戦を想定したオレンジ計画の策定・ブラッシュアップを着実に進めていたのです。

1907年には、日本国内での移民制限をめぐる摩擦(日米紳士協定など)やアメリカ国内の日本人排斥運動に対応しつつ、日本を牽制するため、白く塗装された16隻の新鋭戦艦からなる「グレイ・ホワイト・フリート(大白艦隊)」を世界一周させ、アメリカの国力と海軍力を世界に誇示しました。


第3章:両大戦間期におけるオレンジ計画の進化と国際秩序の変容

第一次世界大戦を経て、日本は連合国側として参戦し、パリ講和会議では国際連盟規約への「人種差別撤廃案」を提案するなど、国際社会での発言力を高めました。しかし、議長国アメリカのウッドロウ・ウイルソン大統領によって同案は実質的に退けられ、1924年にはアメリカで日本人移民を事実上排除する「排日移民法」が成立するなど、日米間の溝は深まっていきました。また、1921〜1922年のワシントン海軍軍縮条約によって、主力艦の保有比率が米英5、日本3と制限され、日英同盟も失効したことで、日本は国際的な包囲・孤立の傾向を強めていくことになります。

この間、1920年代から1930年代にかけて、オレンジ計画はアメリカ海軍・陸軍の合同委員会によって幾度も改訂され、非常に緻密な戦略シミュレーションが行われました。

その基本シナリオは以下のような段階的なものでした。

  1. 第1段階: 開戦と同時に、フィリピンやグアムといったアメリカの太平洋拠点が日本軍によって攻撃・占領されることを想定。

  2. 第2段階: アメリカ本土から主力艦隊(太平洋艦隊)がハワイを経由して西太平洋へ進出し、通商破壊や海戦によって日本海軍の迎撃を打ち破る。

  3. 第3段階: 太平洋の島々を足場に北上し、徹底的な海上封鎖・経済封鎖によって日本の食料、燃料、原材料を枯渇させ、最終的に本土への爆撃や上陸作戦を行って日本を屈服させる。

特に1920年代以降は、重油を燃料とする艦艇の航続距離向上や、大型爆撃機(B-17やのちのB-29など)の登場、さらには日本の家屋が木と紙でできており空襲や焼夷弾攻撃に対して脆弱であるという分析などが組み込まれ、計画はより現実的かつ具体的な総力戦の構想へと洗練されていきました。

                  やまとこたろう


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