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オレンジ計画の現実化:太平洋戦争 62-3

第4章:フランクリン・ルーズベルトによる展開と現実化 そして1930年代後半、叔父であるセオドア・ルーズベルトの路線を受け継ぐ形 と なった フランクリン・ルーズベルト 大統領の政権下で、オレンジ計画は机上の 空論から「実際に遂行すべき現実の国家戦略」へとシフトしていきました。 日中戦争の激化や南部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結などを背景に、 アメリカは対日経済制裁(石油の対日輸出禁止や在米日本資産の凍結など)を  矢継ぎ早に発動し、日本を経済的に深く追い詰めていきました。 この経済封鎖や包囲網の形成こそ、オレンジ計画が描いた 「物量と経済力による持久戦・総力戦」のシナリオそのものでした。 1941年12月、太平洋戦争の勃発とともに、長年温められ、綿密に準備されてきた オレンジ計画の基本構想は、実際の対日作戦として発動されることになりまし た。ミッドウェー海戦での反攻、マッカーサーによるフィリピン奪還(アイ・シ ャル・リターン)、島嶼伝いに進む沖縄戦への道程、そしてB-29による日本本土空 襲と終戦に至るプロセスは、驚くほどオレンジ計画の描いた軌跡に沿って展開さ れることになったのです。 おわりに:歴史の教訓とは何か 日露戦争における日本の勝利は、アジアの小国が欧米の列強に勝利した近代史の大きな奇跡であり、日本国民に大きな自信を与えました。しかし同時に、それは世界最大の工業力と広大な太平洋を持つアメリカに対し、「放置できない警戒すべき存在」として日本を強く意識させる決定的な転換点でもありました。 セオドア・ルーズベルトが蒔いた種は、数十年間の軍事研究と国家戦略を経て、フランクリン・ルーズベルトの時代に現実の戦争として結実しました。 歴史を振り返るとき、戦争とは突発的な偶発事だけで起きるものではなく、国家間の力関係の変化、長期的な戦略の積み重ね、そして互いの不信と誤算の連鎖によって形作られていくものであることが見えてきます。過去の歴史が残したこの重い教訓を深く知ることは、未来の平和と安全を考えるうえで、今なお私たちに大きな示唆を与え続けています。                   やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村                ...

セオドア・ルーズベルト大統領とオレンジ計画の萌芽 62-2

  第2章:セオドア・ルーズベルトとオレンジ計画の萌芽 こうした太平洋進出と対日警戒の動きを主導した中心人物が、第26代大統領 セオドア・ルーズベルト です。海軍次官などを歴任し、海軍力増強の重要性を強く認識していた彼は、戦略家アルフレッド・セーハンらの影響も受けながら、将来の太平洋における覇権争いを視野に入れていました。 1897年、セオドア・ルーズベルトは海軍大学の責任者に対し、日本がハワイ諸島を狙っているという想定の下、アメリカの牽制戦略や兵力展開に関する秘密研究を行うよう命じました。これが、のちに「オレンジ計画(War Plan Orange)」へと発展していく対日作戦計画の原点です。仮想敵国を色別でコードネーム化したアメリカ軍において、日本は「オレンジ(Orange)」と命名されました。 1901年に大統領に就任したセオドア・ルーズベルトは、「大きな棍棒を持って静かに話せ」という外交方針(いわゆる「棍棒外交」)のもと、海軍予算を大幅に増額し、新鋭戦艦を続々と建造してアメリカ海軍を世界屈指の戦力へと押し上げました。 一方で、彼は日露戦争(1904〜1905年)の講和会議であるポーツマス条約の仲介役を務め、その功績でノーベル平和賞を受賞するなど、表面上は日露間の調停者として振る舞いました。しかしその水面下では、日本の強国化を冷静に分析し、将来の対日戦を想定したオレンジ計画の策定・ブラッシュアップを着実に進めていたのです。 1907年には、日本国内での移民制限をめぐる摩擦(日米紳士協定など)やアメリカ国内の日本人排斥運動に対応しつつ、日本を牽制するため、白く塗装された16隻の新鋭戦艦からなる「グレイ・ホワイト・フリート(大白艦隊)」を世界一周させ、アメリカの国力と海軍力を世界に誇示しました。 第3章:両大戦間期におけるオレンジ計画の進化と国際秩序の変容 第一次世界大戦を経て、日本は連合国側として参戦し、パリ講和会議では国際連盟規約への「人種差別撤廃案」を提案するなど、国際社会での発言力を高めました。しかし、議長国アメリカのウッドロウ・ウイルソン大統領によって同案は実質的に退けられ、1924年にはアメリカで日本人移民を事実上排除する「排日移民法」が成立するなど、日米間の溝は深まっていきました。また、1921〜1922年のワシントン海軍軍縮条約によって、主力...

東京裁判史観の向こう側にあるもの;アメリカの海洋戦略 62-1

「オレンジ計画」と日米開戦の真実:アメリカはいかにして日本を追い詰めたのか? はじめに:東京裁判史観の向こう側にあるもの 大東亜戦争の敗戦から長い年月が経った現在でも、学校教育や国際社会においては、「日本が侵略戦争を引き起こした加害者である」という解釈が一般的な歴史認識として定着しています。戦後の日本は、極東国際軍事裁判(東京裁判)の枠組みを受け入れ、連合国側が定立した「正義」の前提に立って自国の歴史を語ることを余儀なくされてきました。 しかし、本当にそれだけで当時の全貌が語り尽くされていると言えるでしょうか。 歴史の視野をさらに広げ、開戦の40年以上前にまで遡るならば、そこには全く異なる構図が浮かび上がってきます。それが、アメリカが周到に準備を進めていた対日戦争計画、すなわち「オレンジ計画」の存在です。日露戦争の勝利以降、アメリカは日本を太平洋における最大の潜在的脅威とみなし、国家の存亡をかけた総力戦のシミュレーションを水面下で重ねていきました。 本稿では、ルーズベルト政権下における対日戦略の実態に焦点を当て、日本がいかにして避けられない戦争へと誘導されていったのかを検証し、東京裁判が覆い隠した歴史の側面を明らかにするためのひとつの視座を提供いたします。 もっとも、これは反米感情を煽ることを目的とするものではありません。かつての大戦争を乗り越えて日米同盟が締結され、70年余にわたり維持・強化されてきた今日、両国関係をより確固たるものとするためには、過去の歴史を多角的な視点から正しく振り返ることが不可欠であると考えるからです。 第1章:アメリカの海洋戦略と「マニフェスト・デスティニー」 アメリカが太平洋へと進出し、やがて日本を仮想敵国として意識する背景には、19世紀から脈々と受け継がれてきた国家思想がありました。それが「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」と呼ばれる思想です。これは、アメリカの領土拡張や西進は神によって定められた天命であるとするものであり、西部開拓や対外進出を正当化する強力なイデオロギーとなりました。 1847年の米墨戦争に勝利してテキサスやカリフォルニアを手に入れたアメリカは、西海岸を足場に太平洋へと乗り出す契機をつかみます。そして1853年、マシュー・ペリーが率いる東インド艦隊が日本に来航します。その表向きの目的は日本との通商でしたが、裏で...