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なぜ日本はアメリカと戦わざるを得なくなっていったのか?日露戦争勝利 61-1

 日本がアメリカと戦わざるを得なくなっていった遠因をたどっていくと、

日本の日露戦争勝利にいきつきます。当初日本を応援していたアメリカは、

その後日本への恐れが芽生え、オレンジ計画(対日戦争計画)へと傾斜していくことになります。

日露戦争から始まる日米関係の変化をたどってみましょう。


1904年2月、日露戦争が始まりました。

その知らせを受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、日本に強い関心を寄せます。当時のアメリカにとって、日本は巨大なロシア帝国に立ち向かう、ある意味で「応援すべき存在」でした。

ところが、開戦からわずか500日ほどで、アメリカから見た日本の姿は大きく変わることになります。日本は「ロシアに立ち向かう小国」から、「将来、警戒すべき強国」へと変わっていったのです。

なぜアメリカは日本を応援したのでしょうか。そして、なぜその日本をやがて恐れるようになったのでしょうか。その変化をたどっていくと、日露戦争がその後の日米関係に与えた大きな影響が見えてきます。


なぜアメリカは日本を応援したのか

日露戦争が始まった当初、アメリカ世論は意外なほど日本に好意的でした。

当時の常識からすれば、ロシア帝国は広大な領土と巨大な軍事力を持つ圧倒的な大国です。一方の日本は、明治維新以降、急速に近代化を進めていたとはいえ、国力ではロシアに大きく及ばないと考えられていました。つまり、この戦争は「圧倒的な大国に、小さな国が挑む戦い」として受け止められたのです。

こうした構図は、アメリカ社会の共感を集めやすいものでした。強大な相手に立ち向かう側に感情移入する。不利な立場にありながら、大国に挑戦する日本を応援する。そのような空気が、当時のアメリカには存在していました。

さらに、ロシアは皇帝による専制的な支配が続く、自由の少ない国として見られていました。それに対して日本は、憲法と議会を備えた立憲国家として近代化を進めていました。

もちろん、当時のアメリカ人が日本を現在の意味で「民主主義国家」と考えていたわけではありません。しかし少なくとも、日本は西洋の制度を取り入れ、近代国家として歩み始めた国として認識されていたのです。


「文明国」日本を世界に示す

日本の側も、こうした欧米の視線を強く意識していました。

日露戦争は、単なる軍事的な争いではありません。日本にとっては、「日本という国家が文明国として認められるかどうか」を世界に示す機会でもあったのです。

当時の欧米社会には、アジアの国々を「非合理的」「野蛮」と見る偏見が根強く残っていました。日本が最も警戒していたのは、まさにそのような見方をされることでした。だからこそ日本は、戦場での勝敗だけでなく、「戦争をどのように戦うのか」「世界からどう見られるのか」という点にも神経を尖らせていました。

その象徴の一つが、ロシア兵捕虜への対応です。

松山のロシア兵捕虜収容所

愛媛県松山市には、日露戦争中、全国で最初の捕虜収容所が設けられ、多くのロシア兵捕虜が収容されました。捕虜に対して比較的自由な行動が認められ、外出や入浴、市民との交流なども行われていたとされています。その待遇の良さから、ロシア兵が「Matsuyama!」と叫んで喜んだという逸話も残っています。

記録によれば、ロシア人捕虜の死亡率は約0.5%だったのに対し、日本人捕虜の死亡率は約2.1%だったとされています。もちろん、死亡率だけで捕虜待遇のすべてを判断することはできません。しかし、少なくとも日本側が捕虜の扱いを含めて、国際的なルールや「文明国」としての振る舞いを強く意識していたことは注目されます。


乃木希典とステッセルの会見

もう一つ、欧米で注目されたのが、旅順攻略後に行われた乃木希典大将とロシア軍司令官ステッセル中将の会見です。

旅順攻略は、日本軍にとって極めて過酷な戦いでした。日本軍は約13万人を投入し、およそ6万人の死傷者を出したとされる大激戦の末、旅順要塞を陥落させました。その戦いを指揮したのが、日本軍第3軍司令官の乃木希典大将でした。

旅順陥落後、乃木とステッセルは会見します。このとき乃木は、敗れたステッセルに敬意を払い、対等な立場で礼を尽くしたと伝えられています。敵であっても、一人の軍人として相手を尊重する。この姿勢は、欧米の人々にも強い印象を与えました。この会見を題材として後に生まれた「水師営の会見」には、「昨日の敵は今日の友」という言葉が登場します。

日露戦争において日本が示そうとしたのは、単に「戦争に勝てる国」という姿だけではありません。「戦争に勝つ力を持ちながら、国際的なルールや軍人としての礼節も理解している近代国家」であることを示そうとしていたのです。                

                   

                      やまとこたろう


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