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東京裁判史観の向こう側にあるもの;アメリカの海洋戦略 62-1

「オレンジ計画」と日米開戦の真実:アメリカはいかにして日本を追い詰めたのか?

はじめに:東京裁判史観の向こう側にあるもの

大東亜戦争の敗戦から長い年月が経った現在でも、学校教育や国際社会においては、「日本が侵略戦争を引き起こした加害者である」という解釈が一般的な歴史認識として定着しています。戦後の日本は、極東国際軍事裁判(東京裁判)の枠組みを受け入れ、連合国側が定立した「正義」の前提に立って自国の歴史を語ることを余儀なくされてきました。

しかし、本当にそれだけで当時の全貌が語り尽くされていると言えるでしょうか。

歴史の視野をさらに広げ、開戦の40年以上前にまで遡るならば、そこには全く異なる構図が浮かび上がってきます。それが、アメリカが周到に準備を進めていた対日戦争計画、すなわち「オレンジ計画」の存在です。日露戦争の勝利以降、アメリカは日本を太平洋における最大の潜在的脅威とみなし、国家の存亡をかけた総力戦のシミュレーションを水面下で重ねていきました。

本稿では、ルーズベルト政権下における対日戦略の実態に焦点を当て、日本がいかにして避けられない戦争へと誘導されていったのかを検証し、東京裁判が覆い隠した歴史の側面を明らかにするためのひとつの視座を提供いたします。

もっとも、これは反米感情を煽ることを目的とするものではありません。かつての大戦争を乗り越えて日米同盟が締結され、70年余にわたり維持・強化されてきた今日、両国関係をより確固たるものとするためには、過去の歴史を多角的な視点から正しく振り返ることが不可欠であると考えるからです。


第1章:アメリカの海洋戦略と「マニフェスト・デスティニー」

アメリカが太平洋へと進出し、やがて日本を仮想敵国として意識する背景には、19世紀から脈々と受け継がれてきた国家思想がありました。それが「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」と呼ばれる思想です。これは、アメリカの領土拡張や西進は神によって定められた天命であるとするものであり、西部開拓や対外進出を正当化する強力なイデオロギーとなりました。

1847年の米墨戦争に勝利してテキサスやカリフォルニアを手に入れたアメリカは、西海岸を足場に太平洋へと乗り出す契機をつかみます。そして1853年、マシュー・ペリーが率いる東インド艦隊が日本に来航します。その表向きの目的は日本との通商でしたが、裏では石炭の補給基地(煤炭所)の確保や、琉球王国を勢力下に置いて海軍基地化することなど、太平洋における戦略的拠点を築く狙いがありました。

さらに、1898年の米西戦争を通じて、アメリカはキューバを保護国とし、スペインの植民地であったフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得します。これにより、アメリカはアジア・太平洋地域への本格的な足がかりを築き上げることになりました。

こうした中、ハワイ王国においてもアメリカ人移民による砂糖キビ生産と政治的支配が強まり、1893年のクーデターを経て、1898年にハワイはアメリカに併合されました。当時、ハワイの国主が日本との連邦締結を模索したことや、日本からの移民が増加していたことから、アメリカ国内では「日本がハワイや太平洋の権益を奪うのではないか」という警戒感、いわゆる「日本脅威論」が芽生えることになります。


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