スキップしてメイン コンテンツに移動

対米戦争に追い込まれる一因となった「支那事変」とは何だったのか? 63−1

 「支那事変」とは何だったのか?

アメリカの日本攻略戦略であるオレンジ計画から、支那事変に目を転じます。明治天皇の玄孫で歴史作家の竹田恒泰氏の動画解説、同氏作成の中学校用教科書、並びに関連情報を整理して解説します。

1. 盧溝橋事件

当時、中国大陸には現在のような「中華人民共和国」(1949年成立宣言)はまだ存在しておらず、統一政府もない「日本の戦国時代」のような軍閥割拠の状態でした。首都を南京に置く「中華民国(国民党政府)」(1912年〜1949年)も、大陸全体を実効支配していたわけではありませんでした。

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が起きました。当時、北京には明治33年(1900年)に起きた義和団事件以来、国際条約に基づいて日本軍が駐屯していました。北京郊外の盧溝橋事件付近で夜間演習をしていた日本軍が何者かの銃撃を受け、翌8日夜明けに国民革命軍(中華民国軍)の陣地を攻撃して両軍の戦闘に発展しました。国民党軍側も「日本軍から撃ってきた」と主張し、互いに相手が先に撃ったと主張する事態となりました。 

2.共産党陰謀説

盧溝橋事件は夜間演習中の日本軍への不審な銃撃が端緒となりましたが、「この銃撃は、日中を全面戦争に突入させるために中国共産党(またはコミンテルン)の工作員が仕掛けたゲリラ・謀略活動である」という説があります。 

説の内容:
当時、共産党は蒋介石の国民党軍に追い詰められており、生き残るためには「日本と国民党を戦わせること(国共合作による抗日民族統一戦線の結成)」が必要不可欠でした。そのため、平津地区(北京・天津)の共産党地下組織(後に国家主席となる劉少奇らが指揮していたとされる)が、日本軍と中国軍(第29軍)の双方に発砲して交戦を誘発したという主張です。

3.支那事変へ

この事件が起きると、早期解決を目指す不拡大派と、これを機に国民革命軍を屈服させようとする拡大派が対立しました。満州の関東軍は国民革命軍に一撃を与えるべく、一部の兵力を山海関に集めました。まもなく現地では訂正協定が成立しますが、近衛文麿首相は華北への大規模な出兵を決定しました。

関東軍が南下すると国民党蒋介石との緊張は高まり、日本軍は7月末に華北での攻撃を開始しました。8月に上海で戦端が開かれると、近衛首相は不拡大方針を放棄して全面戦争に突入しました。この事変の名称は「支那事変」と閣議決定されました。双方が宣戦布告していないので「事変」と呼びました。現在では日中戦争(日華事変)と呼ばれています。中華民国(南京政府)はアメリカやドイツからの武器や軍事支援を受け続けたい(宣戦布告をすると途絶える)という事情があり、日本側にとっても「事変」にとどめる方が有利だったため、双方が宣戦布告を行いませんでした。このため事変と呼ばれたのです。

昭和天皇はソ連の南下の動向を懸念し、戦線拡大を避けて早期に外交交渉で解決することを望んでおられました。しかし、過去の満州事変の成功体験にとらわれた現場の若手将校たちの手柄焦りなどもあり、歯止めが効かなくなっていきます。


       やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村 

コメント

このブログの人気の投稿

ベトナム独立と日本:第一次インドシナ戦争の知られざる絆 58-5

ベトナムの独立戦争、特にフランスとの間に戦われた1946年から1954年の「第一次インドシナ戦争」は、アジア諸国の脱植民地化における歴史的な転換点でした。この激動の歴史の背景には、実は日本とベトナムの深い結びつきが存在しています。 1. 戦争の背景と独立宣言への道のり フランスの過酷な植民地支配(1800年代〜1945年)                            ベトナムは19世紀後半以降、フランスの過酷な植民地支配下に置かれました。フランス植民地政府は、ゴムや米などのプランテーション開発を進める一方で、現地住民に対して重税を課し、専売制(アヘンや塩など)によって巨利を得るなど、搾取と弾圧を繰り返しました。教育や政治参加の機会は厳しく制限され、ベトナムの人々は過酷な貧困と人権抑圧にあえいでいました。     日本軍の進駐(1940年〜1945年)                     そうした中、大東亜戦争中の1940年、日本軍が仏印(フランス領インドシナ)に進駐しました。当初はヴィシー政権(本国がドイツに降伏した後のフランス政権)との協定に基づき、フランス側の行政機構をそのまま残す「仏印共同管理」の形をとっていました。しかし、大東亜戦争末期の1945年3月9日、日本軍は形勢の逆転と米連合軍の本土上陸への備えとして、突如として「明号作戦(仏印処理)」を断行しました。 「明号作戦」の衝撃と、欧米支配の崩壊                この「明号作戦」により、日本軍は一斉に蜂起し、ベトナム国内に駐屯していたフランス軍や行政官をわずか一昼夜のうちに武装解除・拘禁し、その支配権を完全に剥奪しました。 長年、絶対的な存在としてベトナム人に君臨していた白人・フランス権力が、アジアの日本軍によって一網打尽に打ち破られたのです。                            この電撃的な事件は、ベトナムの指導者層や一般民衆にとって計り知れないほどの衝撃と歓喜をもたらしました。「アジアの小国である日本が、あの傲慢な欧米列強を圧倒し、その権力を崩壊させることができるのだ」という事実そのものが、「私たちアジア人も、白人の植民地支配から完全に脱却し、自らの手で国を創ることができる」という、歴史上かつてな...

日露戦争は日米戦争への遠因か? 61-6

日露戦争は日米戦争への遠因か?   ここまで見てくると、後の日米対立を考えるうえで、日露戦争がなぜ重要なのかが見えてきます。日露戦争の開戦当初、アメリカは日本に比較的好意的でした。ロシアの勢力拡大を抑える存在として、日本を歓迎していたからです。 日本もまた、捕虜への対応、外国人記者や観戦武官への配慮、そして金子堅太郎らによる海外世論への働きかけを通じて、自らを「文明国」として世界に認めてもらおうとしていました。そして、日本海海戦の勝利によって、日本は世界から一目置かれる強国となりました。しかし、その成功こそが、アメリカの対日認識を変えるきっかけにもなったのです。 「ロシアに対抗するための日本」から、「アメリカ自身が警戒すべき日本」へ。 この変化は、その後の日米関係を考えるうえで非常に重要です。もちろん、日露戦争から太平洋戦争までには40年近い時間があり、その間には移民問題、中国大陸をめぐる利害対立、日米両国の国内政治、軍拡競争など、さまざまな要因が積み重なっていきます。したがって、「日露戦争が直接、日米戦争を引き起こした」と考えるのは単純化しすぎでしょう。 しかし、アメリカと日本が後に戦わざるを得なくなった原因を長い時間軸で探っていくと、 日露戦争における日本の勝利が、一つの重要な出発点として浮かび上がってきます。 かつてアメリカが歓迎した日本の強国化。それがやがて、アメリカにとって警戒すべき存在へと変わっていき、日本攻略を見据えたオレンジ計画が策定されていくようになりました。この「好意から警戒へ」という変化こそ、日露戦争が日米関係に残した重要な歴史的意味の一つだったのではないでしょうか。                やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村                

悲劇の作戦に隠された真実――インパール作戦とインド独立の約束 58-4

   なぜ無謀な作戦を決行したのか 大東亜戦争において、最も悲惨で無謀な戦いとして激しく批判されるのが「インパール作戦(1944年)」です。3万人以上の戦死者と、膨大な餓死・病死者を出したこの作戦は、現代でも「無能な指揮官による無意味な戦い」の代名詞のように語られます。 しかし、日本軍はなぜ、すでに戦況が悪化していたこの時期に、わざわざ山深いインド国境へと進軍したのでしょうか。その答えもまた、大東亜会議にあります。 大東亜会議の席上、ビルマ代表のバ・モウは「インドの独立なくしてアジアの自由はない」と訴え、インド代表のチャンドラ・ボースは「イギリス帝国を打倒し、4億人のインド人を解放する」と決意を表明しました。これに対し、議長国である日本は、「国家としてインドの独立を全力で支援する」と国際公約したのです。 日本は、国際会議での約束を果たすため、たとえ自国に不利な戦いであっても、インド独立の火を消さないために進軍せざるを得なかったという大義がありました。 インド独立の導火線となった日本軍の戦い 作戦を指揮した牟田口廉也中将は、物資も装備も極限に少ない中、短期決戦での勝利を狙い緻密な作戦を練りました。一時は要衝を占領するなどイギリス軍を追い詰めますが、前線の混乱や雨季の到来、補給の途絶によって作戦は壊滅的な失敗に終わります。 結果だけを見れば大敗北であり、悲劇であったことは間違いありません。しかし、この作戦を単なる「無謀なゴミ屑扱い」として歴史から葬り去ろうとする動きには違和感を覚えざるを得ません。なぜなら、この戦いに同行したチャンドラ・ボース率いる「インド国民軍(INA)」の兵士たちの血と、日本軍の奮戦が、のちのインド独立を決定づけたからです。 戦後、イギリスは捕らえたインド国民軍の将校たちを「反逆罪」として裁こうとしました(赤砦裁判 / レッド・フォート裁判)。しかしこれに対し、インド全土で「彼らは祖国解放のために戦った英雄だ」と猛烈な暴動が発生。イギリス軍に所属していたインド人兵士や海軍までもが反乱を起こす事態となり、イギリスはついにインドを支配し続けることを諦め、独立を認めざるを得なくなったのです。 おわりに:多面的な歴史に目を向けるということ インパール作戦の悲惨さを強調し、大東亜会議やアジア独立への貢献という「不都合な真実」を隠しておきたい人...