「支那事変」とは何だったのか?
アメリカの日本攻略戦略であるオレンジ計画から、支那事変に目を転じます。明治天皇の玄孫で歴史作家の竹田恒泰氏の動画解説、同氏作成の中学校用教科書、並びに関連情報を整理して解説します。
1. 盧溝橋事件
当時、中国大陸には現在のような「中華人民共和国」(1949年成立宣言)はまだ存在しておらず、統一政府もない「日本の戦国時代」のような軍閥割拠の状態でした。首都を南京に置く「中華民国(国民党政府)」(1912年〜1949年)も、大陸全体を実効支配していたわけではありませんでした。
昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が起きました。当時、北京には明治33年(1900年)に起きた義和団事件以来、国際条約に基づいて日本軍が駐屯していました。北京郊外の盧溝橋事件付近で夜間演習をしていた日本軍が何者かの銃撃を受け、翌8日夜明けに国民革命軍(中華民国軍)の陣地を攻撃して両軍の戦闘に発展しました。国民党軍側も「日本軍から撃ってきた」と主張し、互いに相手が先に撃ったと主張する事態となりました。
2.共産党陰謀説
盧溝橋事件は夜間演習中の日本軍への不審な銃撃が端緒となりましたが、「この銃撃は、日中を全面戦争に突入させるために中国共産党(またはコミンテルン)の工作員が仕掛けたゲリラ・謀略活動である」という説があります。
説の内容:
当時、共産党は蒋介石の国民党軍に追い詰められており、生き残るためには「日本と国民党を戦わせること(国共合作による抗日民族統一戦線の結成)」が必要不可欠でした。そのため、平津地区(北京・天津)の共産党地下組織(後に国家主席となる劉少奇らが指揮していたとされる)が、日本軍と中国軍(第29軍)の双方に発砲して交戦を誘発したという主張です。
3.支那事変へ
この事件が起きると、早期解決を目指す不拡大派と、これを機に国民革命軍を屈服させようとする拡大派が対立しました。満州の関東軍は国民革命軍に一撃を与えるべく、一部の兵力を山海関に集めました。まもなく現地では訂正協定が成立しますが、近衛文麿首相は華北への大規模な出兵を決定しました。
関東軍が南下すると国民党蒋介石との緊張は高まり、日本軍は7月末に華北での攻撃を開始しました。8月に上海で戦端が開かれると、近衛首相は不拡大方針を放棄して全面戦争に突入しました。この事変の名称は「支那事変」と閣議決定されました。双方が宣戦布告していないので「事変」と呼びました。現在では日中戦争(日華事変)と呼ばれています。中華民国(南京政府)はアメリカやドイツからの武器や軍事支援を受け続けたい(宣戦布告をすると途絶える)という事情があり、日本側にとっても「事変」にとどめる方が有利だったため、双方が宣戦布告を行いませんでした。このため事変と呼ばれたのです。
昭和天皇はソ連の南下の動向を懸念し、戦線拡大を避けて早期に外交交渉で解決することを望んでおられました。しかし、過去の満州事変の成功体験にとらわれた現場の若手将校たちの手柄焦りなどもあり、歯止めが効かなくなっていきます。
やまとこたろう
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